エッセイ『旅の途上の』

知の流れにまかせるまま異国にたたずんでいると知が騒ぎます。何かと出くわして衝撃を受けることによって知が身体をつたいます。でも、知のにじむような旅の向こう側には知のしたたる至福が待つので知しぶきを浴びたり異郷者として通過儀礼的に生き知を吸うことは厭わないです。旅人の知は争えません。

旅路という作品

旅の途上の道は空間芸術や時間芸術の素材になると同時に作品それ自体にもなるのです。

多岐と多難さとを思わしめる目の前に拓かれた幾里もの荒涼たる道を多くの人々が往来し、その前後の営みの中で生を表象するために粉骨砕身してきました。画家は時代の心象を二次元に描写して絵画にし、彫刻家は精神を彫り刻んで三次元の立体像にし、音楽家は音で刻まれたリズムを連ねながらメロディーを奏で、そして詩人は見えないビジョンを言葉にならない言葉を用いて文字化します。

では、旅人はどうでしょうか。彼らは旅路での経験と景観を身体に刻み込むことによって、クローゼットの奥の引き出しに記憶を詰め込みます。蓄積された古い記憶を着膨れする前に行く先々で少しずつ脱ぎ捨て、新たな記憶を探し当てては道からくり抜いて身を包むことで旅をカスタマイズします。それゆえに、旅路は新旧の記憶の断片が錯綜しながら融合を繰り返すトランジットとなり、旅人は経験を乗り継ぐことができるようになるのです。

言い換えるならば、旅路には過ぎ去りし日々の千客万来によって置き去りにされた記憶のフラグメントが潤沢に敷き詰められているのです。道に刻まれた記憶は思考のフラクションと経験のセグメントによって吸着されたもので、時間をかけて醸成された後に再びそこから擦り剥かれてそれぞれ別の道へと旅立って行きます。のべつ幕無しに記憶の残響を宿す道は、境界の定めに従って、汲めども尽きぬ旅の汗を滴らせながら旅人を出迎えるのです。

そのようなプロセスによって道は舗装されるわけだから、旅人は知らず知らずのうちに経験された身体を道に刻み込んで旅路という作品を生み出しているのです。かつて人々は自分がそこに辿り着いた証しとして木や建造物に名前や言葉を掘り抜いていました。でも意図せずしてすでに旅人は旅人である限りにおいていつでも満遍なく自分の断片を作品化する宿命を負っているのです。何も残さないつもりで歩いた浜辺に自分の足跡を残すようにして。