エッセイ『旅の途上の』

知の流れにまかせるまま異国にたたずんでいると知が騒ぎます。何かと出くわして衝撃を受けることによって知が身体をつたいます。でも、知のにじむような旅の向こう側には知のしたたる至福が待つので知しぶきを浴びたり異郷者として通過儀礼的に生き知を吸うことは厭わないです。旅人の知は争えません。

視覚を歩く

旅の途上の異邦性が生み出す奥義はパースペクティヴ(=視点)の彼方にあるアティチュード(=態度)から始まるのです。

異郷の言葉や文化に触れるプロセスで知らず知らずのうちに身体化したパースペクティヴ(perspectiva)は様々な外観や表現や可能性を揺るぎないものとする視点ですが、その揺らぐことのなさはかえってパースペクティヴ自体を硬直したものにしてしまい、視覚的に万能であるという別のパースペクティヴを生み出してしまいます。異邦性の木の実を口にした旅人は、異郷の人々にとっての同じく異邦性というシンクロニシティを身にまといながら彷徨い、次第に異邦性のカタログを手に世界を浮遊するインテリゲンチャの称号を獲得します。異文化を相対化することができるという幻想を抱いた旅人は認識の要衝である客観性を攻略し、コスモポリタンという名の特権的な地位を享受するのです。

しかしながら、近代が生み出した過度な視覚的依存がもたらすコスモポリタンの客観性は全身体的ではなく、深入りして傷つきたくない身勝手な理解者を生み出すのに対し、客観的であると偽装せずに主観のままで別の主観と向き合うことで、その別の主観が介在した生活とは切り離せない文化や言葉の海を泳ぐというオプションもあります。権威主義を想起させるシンボリックな肘掛け椅子から重い腰を上げて自分の足で立ち、有閑階級的な虚栄心から装着された優雅な眼鏡フレームから度なしで色のついたレンズを取り外し、浮き輪が恥ずかしければビート板もしくはサーフボードでも用意して足の指先から水の冷たさを感じながら大海を目指すというオプションが。

異邦性の奥義は視角をずらして視覚に変化をもたらすことではなく、その彼方に埋もれた死角に辿り着くために動き出すことにあります。異質なものが自分の中に浸透することを拒まず、動きのある他者に積極的に関与しようと方向づけることに特徴があるのです。パースペクティヴに自らの身体をインストールするのではなく、アティチュード(actitud)すなわち行為(act)に指向した態度で異邦性をとらえる。そしてそれは旅することから始まるのです。