エッセイ『旅の途上の』

知の流れにまかせるまま異国にたたずんでいると知が騒ぎます。何かと出くわして衝撃を受けることによって知が身体をつたいます。でも、知のにじむような旅の向こう側には知のしたたる至福が待つので知しぶきを浴びたり異郷者として通過儀礼的に生き知を吸うことは厭わないです。旅人の知は争えません。

進行形の誤謬

旅の途上の変遷とは、動きのない客体(object)を幾つも発見し続けることではなく、動きを伴った主体(subject)が幾つもの発見をし続けることにあるのです。

たくさんの風景という作品を見ることに大きな価値を見出そうとすると、どうしても目の前で見ている客体が静止してしまいます。風景がそこに静止して佇んでいるからそれでよしとして次の作品に歩を進める。まるで美術館の絵画を見るように、切り取った風景を感性のフレームに収め、スタンプラリーにように風景の記憶を収集してしまうのです。一度きりのパノラマばかりを眺めていると、いつの間にか視覚のシャッターは全ての時代を1冊のアルバムに強引に詰め込み、巧みに丸め込み、荒っぽくすり込み、そして最後には力尽くで縫い込んでしまうのです。

しかしながら、作品を幾つも見るのではなく、見る主体である鑑賞者が客体を動かせば一度きりのパノラマが勝手に動き始めます。進行形の誤謬に陥って動きというものを「瞬間性」に限定するのではなく、見る主体が時間的な幅の中で風景を泳がせることによって、見られる客体は惜しげもなく永遠の動きを見る側に呈示するようになるのです。「動きがある」というのは文字通りに何かが動いていることではなく、何かが過去から現在を経て未来へと旅するプロセスという旅の途上の文脈もしくはフレームの中で、目の前で動かないものを動かすことを介して動くということを意味します。

例えば、目の前で動かない仏塔を瞬間性の中で進行形的に見ていても仏塔は動かないけど、その仏塔が建立されるに至った経緯から人々が建設に携わっていくプロセスが目の前の今に至り、それがこの後に沿革を刻んでいくであろう全ての文脈の中で仏塔を読み返すと、瞬間性の中で死んでいたはず仏塔が新たな翻訳によって蘇ります。それが「動きがある」ということの本当の意味なのです。

異なった風景を知覚するのではなく、異なった風景を自ら描くプロセスにおいて知覚に変容をもたらすことによって動かないものを動かす。そのプロセスの中で「動く」と「動かない」のズレを生み出すのが旅の途上の変遷なのです。