エッセイ『旅の途上の』

知の流れにまかせるまま異国にたたずんでいると知が騒ぎます。何かと出くわして衝撃を受けることによって知が身体をつたいます。でも、知のにじむような旅の向こう側には知のしたたる至福が待つので知しぶきを浴びたり異郷者として通過儀礼的に生き知を吸うことは厭わないです。旅人の知は争えません。

溢れ出すフォトジェニックな現実

旅の途上は多彩でフォトジェニックな現実を自ら生み出すのです。

至るところで収集された個々の経験は美学の扉を解き放ち、言葉にされる以前のコスモスへと旅人を招き入れます。自然豊かな森に足を踏み入れて「あるがままの自然」という存在不可能な対象物を前にして、かつては美しくも醜くもなく中立的にただそこにあっただけのものを文明というフィルターを無くして見るという悪あがきに束の間だけ興じて、すぐに素直な社会的偏見の目で醜い自然に目をやるのです。社会的に洗脳された美のレンズの枠からはみ出た醜いものをすくい取り、それらに美しいものと対等の称号を与えると、美醜に通底する根が姿を現し、次第に醜いも美しいも全てが美という名の特権を享受してキャンバスに新たな風穴を開けます。

空間の醜さと無礼さもまた都市を呑み込みます。悪名高いコンクリートアスファルトを退け、都会の森の階段を上がって静かな湖畔の小屋に染み入ります。人間にとって不都合な真実は全てコンクリートで固められて動けない状態の中で動こうとするのです。エキゾチックな過去とコスモポリタンな現在が配合されて流し込まれたコンクリートは「空間」を境界づけることによってその領土を狭め、醜いものと美しいものを隣り合わせの共謀関係へと導くのです。

始発駅であった自然と終着駅である空間の間で場所を定義づけられた人々は、今度は始発駅となった空間から終着駅となった自然に辿り着こうとしますが、失われた自然はもう手に届かない永遠の終着駅と化すのです。旅の途上で収集された個々の経験を通じて、旅人は自然や空間や人間による混乱の産物に浸った美学に出会い、自分とは異なる場所や人を含むあらゆるエンティティに湧く美的崇高な感覚を体験します。

美が塗り替えられた時間と場所で、アップデートされた概念を異質なままに受け入れて、それらに敬意を払いながら寛容を行使する、旅はそういう機会を提供します。多彩でフォトジェニックな現実はアルバムやファイルから飛び出して旅路の至るところを覆い、旅それ自体が独り歩きをし始めるのです。