エッセイ『旅の途上の』

知の流れにまかせるまま異国にたたずんでいると知が騒ぎます。何かと出くわして衝撃を受けることによって知が身体をつたいます。でも、知のにじむような旅の向こう側には知のしたたる至福が待つので知しぶきを浴びたり異郷者として通過儀礼的に生き知を吸うことは厭わないです。旅人の知は争えません。

郷愁の誘惑

旅の途上で駆られた旅愁は忘れかけていた郷愁のページをめくって故郷喪失の序章を読み進むことへと導くのです。

旅の途上で吸い込んできた旅情は無意識のうちに旅愁という名の哀しみと郷愁という名の懐かしさを膨らませます。通りを見下ろす大きなステンドグラスの窓に描かれた旅愁に郷愁が映し出された瞬間に、エレガントな抵抗力で武装した異郷のベルエポックが旅人に襲いかかるのです。残したものに対する悲しみと、来るものに対する期待と不安の混在した感情は、大きな遠心力と求心力を伴いながら、スーツケースに詰め込んだノスタルジアに捧げられた週末へと旅人をいざなうからです。やがて蓄積された旅愁と容赦ない郷愁の区別がつかなくなった旅人は意を決して故郷へ戻ることとなりました。

近しくなった異郷の人々に別れを告げ、遠い故郷に向けて異郷の地を旅立ったのですが、その瞬間に故郷はすでに始まっていました。故郷に向けて暴走するフライング気味な気持ちが帰郷の途上を別様な景色で彩り、境界線を引き伸ばすことで故郷を異郷に手繰り寄せ、異郷を故郷に吸い寄せるのです。トランジットで故郷を補給した機内では場当たり的かつ取り澄ました態度で帰郷者らに食事がもてなされ、溢れかえる同郷者らを詰め込んだ列車内では幻想的なエキゾチズムが凝縮された打ち出の小槌が共鳴し合い、故意に寂しさを収納し忘れた玉手箱が誰にも気づかれることのないリアリティを口ずさんでいました。やがて故郷に辿り着くのを前にして、旅人は積み重ねてきたノスタルジアを全て食い潰し、思い込んで過剰に美化してきた帰郷の黄昏を早々に見失っていたのです。

故郷への帰還が近づけば近づくほど周囲の空間に占める故郷の濃度が高くなり、フライングで始まった帰郷の旅にもようやく終止符が打たれようとした瞬間、旅人はとっくに故郷に辿り着いていたことに気づきましたが、故郷はもうすでになくなっていました。異郷で染色された旅人の錦は故郷の人々に認識されることはなく、異郷で手に入れた角膜が故郷を認識できなくなったからです。何も収納しなかったはずの玉手箱を開けた途端、あるはずのない寂しさが旅人の存在を曇らせるのでした。