エッセイ『旅の途上の』

知の流れにまかせるまま異国にたたずんでいると知が騒ぎます。何かと出くわして衝撃を受けることによって知が身体をつたいます。でも、知のにじむような旅の向こう側には知のしたたる至福が待つので知しぶきを浴びたり異郷者として通過儀礼的に生き知を吸うことは厭わないです。旅人の知は争えません。

車窓は現実化する

旅の途上で乗った列車が映し出す幾つもの窓枠はまるで額縁のように展示されて一種のミュージアムと化していました。

どの車窓からも美しく変わりゆく絵画を堪能することができるから、進行方向右側の丘の向こうにある人の気配の無い牧歌的な小さな村の絵を鑑賞することに飽きたら、左側に広がる海岸に生じた急な崖から大海を介してはるか彼方に見える美しい島々の絵を鑑賞すれば良いのです。

翻って美術館の絵画は芸術的ではあるけれども美しくはないです。芸術至上主義的な横暴な仕掛けと、それゆえに権威主義的な佇まいは、人為的かつ作為的に生み出された美の饗宴に見苦しい欲望の筆で上塗りをすることで、さらに醜い風貌を曝け出すことになってしまいました。盲目的な溺愛がもたらす箱物行政による過保護な扱いは、本来であれば多くの人々に鑑賞されるべく芸術品を社会階層的に凝り固まった鑑賞技法として特権的に囲い込み、大多数の市民的権利を排除するのです。

さて車窓のシーンに戻りましょう。車窓から眺められることを念頭に描かれたわけではない外の風景は人と自然が融合した情景を映し出します。ところが、列車の窓枠を絵画の額縁に見立てたら、確かに車窓というキャンバスに描かれた風景絵画も美術館の絵画とさほど変わらないものとなります。シヴェルブシュが述べたところの「パノラマ的な眼差し」というものです。かつては馬車によって風景の中を旅していたものが、列車移動では視界の限られた窓枠からパノラマ的に風景を見ることを余儀なくされます。つまり列車内というのは周囲の風景とは異なった空間にあるのです。まるで絵画を見るように。

でも落ち込むことはありません。美術館で目にする絵画の世界に飛び込んで行くことはできませんが、列車を降りればパノラマ的な眼差しから解放されて風景と同じ空間に存することができるのです。モナリザの匂いを嗅ぐためにダ・ヴィンチの絵画の中には入れないし、叫びを聴くためにムンクの絵画の中には入れませんが、車窓から眺める風景の一部となって嗅いだり聴いたりしたければ、ただ列車から降りれば良いのです。