エッセイ『旅の途上の』

知の流れにまかせるまま異国にたたずんでいると知が騒ぎます。何かと出くわして衝撃を受けることによって知が身体をつたいます。でも、知のにじむような旅の向こう側には知のしたたる至福が待つので知しぶきを浴びたり異郷者として通過儀礼的に生き知を吸うことは厭わないです。旅人の知は争えません。

公共空間から交響空間へ

旅の途上の悲しき公共空間を通り過ぎると、喜ばしき交響空間に辿り着きました。

よそ者にとって不可侵の私的空間という環境においては、一度その扉の外に出たらわきまえなければならない身のほどや善悪のたがの全てが崩壊され、控えめであることが命取りにもなるような自由を謳歌することができます。そして、これから始まる社会性という一触即発の事態に備えて、心が張り詰める音合わせで用意周到に構えながら、まるで季節の異なる北半球から南半球に飛び立つかのごとく大胆さをまとって公共空間の扉を開けるのです。

公共空間に足を踏み入れると、身のほどをわきまえて善悪のたがを締め、私的空間においては命取りとなる控えめな自由のアクセルを謙虚なる精神で制御し、リハーサルで遂行したとおりの社会性を伴った振る舞いで何幕もの舞台を踏むことになります。ひとりひとりは違って当たり前だの世界に1つだけの個性だのといった人の心をくすぐるレトリックで奮起を促す一方で、みんなと同じようにだの平等主義や機会均等だのといった干からびたパターナリズムで萎縮させる公共空間において、人々は多様性と平等性の間で妥協点を見出そうとするのです。

そんな失意のどん底で迷宮に迷い込んだ人の波ですが、しわのように小さな波々の中にしっかりと目を配りながら耳を澄ますと、人々の価値によって表象された意思や声といった音の塊が文化的多様性を帯びながら姿を現します。一定の制約を伴いながらも自らの存在感を示す集合的な自我たちは公共空間のしがらみを前にしても引き下がらずに何かを奏でようとするのです。

包囲網を張ろうとする公共空間のロジックは無機的なもので一切の不謹慎を容認するものではないけれど、ひとたびユーモアとエスプリの這い入る程度の余地が生まれると、押し殺されていた多様性が生物的多様性や非生物的多様性と融合しながら特定の場所に音の風景を生み出すための響き合うような交流を促します。そのときはじめて悲しき公共空間は喜ばしき交響空間へと変容するのです。