エッセイ『旅の途上の』

知の流れにまかせるまま異国にたたずんでいると知が騒ぎます。何かと出くわして衝撃を受けることによって知が身体をつたいます。でも、知のにじむような旅の向こう側には知のしたたる至福が待つので知しぶきを浴びたり異郷者として通過儀礼的に生き知を吸うことは厭わないです。旅人の知は争えません。

見ているものに見られる

旅の途上では「何を」見るかではなく「どうやって」見るかが要請され、今そこの生きられた経験に恋に落ちるように誘導され、見ているものに見られ、聞いているものに聞かれ、話しているものに話されることが喚起されるのです。

ようやく辿り着いた宿場町で観光とは無縁の世界への扉を開くと、そこには日常生活が営まれるリアリティがしっかりと息づいていました。来訪者に関心を持たれるほどの風景や風俗の無い日常は、これまでの旅路で見てきたものが絵画や写真と大差がないことを告げ、本当は目を見張るほどの景色であったはずのものを見た瞬間に発した「まるで絵画のようだ」という卑俗な感想によって美の規準が作為的かつ人工的に造形された芸術であることを是認した過ちを罪深く感じさせるのでした。

壮大な遺跡群に足を踏み入れて古代のロマンに独善的な思いを馳せたり、傑出した文化的意義もしくは自然的価値を有する建造物を権威的な世界遺産的規準で眺めたり、異国情緒に表面的な憧れを抱いて神秘的かつ幻想的なステレオタイプを強制する不平等な関係に身を置いていることを正当化していることに気づかないフリをしたりして、多くのものを見たけど何も見てこなかったのです。

そのことを教えてくれたのは旅先の非日常ではなく、そこにある日常のリアリティでした。見るべきものが先にあって、その後にそれをどうやって見るかということではなく、まずどうやって見るかがあり、その後に見るべきものが見たものとして記憶に滑り込むということを。

一方的にではなく相互的に見る、聞く、嗅ぐ、話す、触れる。フレームの中に閉ざされた風景の境界線をまたぐと他者との片務的かつ不均衡な関係に終止符が打たれて安心を手放すことになるかもしれません。それでも自分の見ているものに見られ、聞いているものに聞かれ、嗅いでいるものに嗅がれ、話しているものに話されるようなインタラクティブな関係を生み出すことによって、旅人自身が風景の一部になるのです。