エッセイ『旅の途上の』

知の流れにまかせるまま異国にたたずんでいると知が騒ぎます。何かと出くわして衝撃を受けることによって知が身体をつたいます。でも、知のにじむような旅の向こう側には知のしたたる至福が待つので知しぶきを浴びたり異郷者として通過儀礼的に生き知を吸うことは厭わないです。旅人の知は争えません。

旅の途上の内なる他者たち

旅の途上で自分と出会うために内へ内へと自らを閉じ込めるのではなく、外へ外へと自らを解き放っていた旅人が、他者の内へと迫ろうとしていました。

自分ときちんと向き合って自分の考えを省みることを「内省」といいますが、内省する自分は主体であり、内省される自分は客体であり内省の対象となります。しかし自分を客観的なものとして対象化するには自分以外の何ものかの存在が必要になります。それが他者です。他者の中に埋もれた自分を照射してステージに引っ張り上げるために、わたしたちは他者を自分の中に取り入れるのです。それゆえに「自分探し」とは外へと向かって他者を狩猟する行脚を意味するのです。

他者との関わり合いから得られた収穫は内に取り込まれて具体的な他者が自分の中に集うこととなります。そうやって摘み取られた他者たちの中から一定の法則や規準のようなものが普遍化に耐える手続きを経ることによって彼ら他者らは心の中で一般化されるのです。

ところが、収穫された果実が定型化されたり理解の枠に収まるようになると、もっと別様な他者への期待が膨らむようになって、内なる異邦人が少しずつ来訪して内なる世界に住まうようになる。他者の側でもこれと同じようなプロセスが歩まれているのだから、生身の他者を前にして、希求する自我は目の前の他者の内側に何とか辿り着こうとするのです。他者の中に潜って正面の扉から立ち入る手形を呼び水として他者の世界を這い回り、収穫された他者性を自我と共有させるのです。

他人の所作を鏡にして自身を見つめるように、何か違うものは自分の行動指針を理解するのに役立ちます。そうやって人は旅の途上で異郷と出会うことで自分の故郷を知り、他者と出会うことで自分を知り、異国の地における他者の内において故郷にいるはずの盟友とも再会するのです。自我に結わえたガラスのように硬い何本もの糸がほつれるとき、内なる境界線は違う景色を見せてくれることでしょう。