エッセイ『旅の途上の』

知の流れにまかせるまま異国にたたずんでいると知が騒ぎます。何かと出くわして衝撃を受けることによって知が身体をつたいます。でも、知のにじむような旅の向こう側には知のしたたる至福が待つので知しぶきを浴びたり異郷者として通過儀礼的に生き知を吸うことは厭わないです。旅人の知は争えません。

カオスとコスモスの対話

旅の途上で異邦人らの居場所を演出する異空間は、構造的な社会やネットワークの隙間に入り込んで亀裂や隙間を作りながら異文化を培養させます。

周囲と比べて異なるものは、音や匂いや風貌もしくは内面の輝きのみならず劣悪で毒性の強いものであったとしても、出る杭が打たれるようにして周囲に埋没しない限りにおいて必ず異彩を放ち、新たなエネルギーの源泉となります。異邦性はどんなところにも自分の居場所を見つけ、周囲とは異なる尊厳を培養させながら美しいコスモス(秩序)を咲かせるからなのです。たとえ周囲から見たらカオス(無秩序)であったとしても、異邦性は独自のコスモロジーに則って異文化を耕すのです。

そんな異文化を開花させた小宇宙もひとたび異文化がもはや異文化ではなく正真正銘の文化の称号を付与されるに至るやいなや、再び同質的なヴェールを引き裂いて別の新たな異邦性を発芽させようとします。異邦性の外套を羽織った同胞たちが深く根を下ろすと異彩を放つ光沢は失われますが、再び何かが動き出して新たな異種交配の機会を生み出すことによって異空間が新しい何ものかの源泉となるのです。同じようなものの中で必死に住み処を求めて孤立した異質なものたちも、やがて異質なもので類が友を呼び、同じ波長で遭遇して蛇の道は蛇となって同じようなものの中で埋没しない何かが育まれ、新たな異邦性が歩み出すのです。

旅の途上の異空間は常に求心力と遠心力が交錯し合いながら異文化を生み出しては新たな文化の動詞化を促し、文化が動きの無い名詞ではなく動きを伴った動詞や形容詞として活用することを再認識させるのです。求心力は何かに同化させようとし、遠心力は何かに異化させようとする。旅空間はそういった同化と異化が対話して、求心力と遠心力が同郷と異郷を、あるいは停泊と漂泊を交渉の場に就かせるアリーナとなります。コスモスという秩序が咲き乱れるのは何ものかが動き出すことを予感させるのです。