エアポートに漂う/エアポートを漂う
旅の途上のエアポートがどれも同じように見えたり香ったりすることがあります。
ミャンマーのヤンゴン空港がパゴダの景観で到着客をいざなったとしても、イースター島のハンガロア空港がモアイ像の景観で到着客をいざなったとしても、異なるはずなのに2つの空港には何か同じような「景観」が拡がります。
ジャマイカのモンテゴベイ空港がココナッツラムの香りで到着客をいざなったとしても、ジャカルタ空港がクローヴタバコの香りで到着客をいざなったとしても、異なるはずなのに2つの空港には何か同じような「香り」が漂います。
旅の途上のエアポートがどこも同じように見えたり香ったりするのは空港がどこも似たような空間装飾を施されているからなのでしょう。バーやグリルを備えたラウンジはそれを目的として来訪されるために存在するのではありません。トランジットとしてそこに佇みながら旅人らの引き立て役に徹するような身繕いで来客を迎えるのです。当然の結果として香りや音もそれに追随して利用客の嗅覚や聴覚に辿り着こうとします。
でもそれ以上に興味深いのは空港装飾とは別の見方です。景観や香り、さらには人と物が練り歩くように生み出す喧騒の宴は、空港という物理的な建物が内に宿すものではなく、むしろ旅人の内側から湧き上がって放たれるものだという見方です。エアポートという楽譜を音色や演出で後ろ盾するような視覚のメロディーと嗅覚のリズムが旅人らの間から漂いながら空間を埋め尽くす。そういった律動や旋律がエアポートの景観と香りに別様なニュアンスとアクセントを付与しているのです。
そして何より、そんな景観や香りが醸し出されるのは、旅人が異質なものへの下ごしらえを編み出していることに因ります。来たるべき異邦性もしくは他者性との出会いに対する期待と覚悟の発露なのでしょう。言い換えるならば、エアポートは異邦性や他者性に辿り着くための通過儀礼的なプロローグが物語られるシンボリックな場所。異邦性や他者性に調律するのを待ち焦がれる身体が解き放つ景観や香りなのです。