エッセイ『旅の途上の』

知の流れにまかせるまま異国にたたずんでいると知が騒ぎます。何かと出くわして衝撃を受けることによって知が身体をつたいます。でも、知のにじむような旅の向こう側には知のしたたる至福が待つので知しぶきを浴びたり異郷者として通過儀礼的に生き知を吸うことは厭わないです。旅人の知は争えません。

見せると見るの隙間 

旅の途上は見せたい側の供給と見たい側の需要が出会うマーケットではなく、見せたい側の見せたくない闇と見たい側の見たいとは思ってもいなかった闇が思いがけずに共鳴し合うオアシスなのです。

異国の様々な土地で伝統的生活を堅持する人々と出会いました。伝統的生活というのは、自分が依拠する慣れ親しんだ文化的価値観とは異なっているがゆえに、その光景にレンズを向ける欲望を抑えきれなくなる程度にエキゾチックであるような生活ということです。

そんな異国の他者である彼らは普段は現代的生活を営み、観光や物見遊山のために遠い彼方からやってきた来訪者らの期待に応じる時だけ伝統的生活を披露しています。彼ら生活者は自分たちの見せたいものを見せて、外部からやって来る観察者は見たいものを見て去って行くのです。生活者は観察者が期待するような言動で要請される期待に応え、観察者は生活者に期待するような言動を要請して自分たちの期待に応えてもらうのです。

旅の途上に限らず、わたしたちはいつでも他者の期待に応えることを要請されます。自分にとって都合の良いメッセージが他者に伝わることだけを信じて、決して都合の悪いメッセージが伝わることのないよう奮闘します。そしてその関係が滞りなく進行するために互いに期待し合うのです。

ところがそのような関係性がスムーズに展開している間は互いの闇の部分は脚本と演出で繕われた外套で覆われていますが、何の予兆もなく突然の強風で互いの外套がめくれて闇を曝け出してしまうこともあります。ずっと包み隠していた互いの闇が異質ではなく同質のヴェールで覆われていたことに気づいたとき、それまで別々の写真の中で擬似的に存在していた観察者と生活者は、ここにきてようやく1つのフレームに収まって同じ風景の中で互いの闇に対して共鳴し合えるようになるのです。観光演出と闇の間に生じたズレからきしむような音が聞こえてきたときにはじめて彼らは旅の途上で出会うのです。