エッセイ『旅の途上の』

知の流れにまかせるまま異国にたたずんでいると知が騒ぎます。何かと出くわして衝撃を受けることによって知が身体をつたいます。でも、知のにじむような旅の向こう側には知のしたたる至福が待つので知しぶきを浴びたり異郷者として通過儀礼的に生き知を吸うことは厭わないです。旅人の知は争えません。

地図を歩く/街を読む

旅の途上のマカオでは道しるべとなるカジノに導かれるままにこの都市国家のロジックを身体化させれば地図は全く不要となるのです。

立ち並ぶ老舗カジノホテルはどれもが派手な装飾を施しながら闇と誘惑に人々をいざないます。夜空を焦がすカジノのネオンは密集した人家の灯りや街明かりと相まってマカオの街を立体的に組み立てるので、平面な地図がなくても街との絆を深めることができるのです。平面図の中に舞い込んで地図を身体化するような感覚から空を見上げると、街それ自体が絵図となっていることに気づかされます。

地図を手にするとき、わたしたちはたいてい目的地を探しています。それゆえに、あるべき場所に辿り着くための手段としての途上の道ですることと言えば、平面上に凝縮されて描かれた点と線の集まりを立体的に彫られた現実の中に映し出すことです。言い換えるならば、地図という翻訳書を頼りにしながら原典書である街を解釈していることになるのです。

翻訳に依存しないで原典書に果敢に挑むのは確かに諸々の手間とエネルギーを要します。でもその分だけ摘み取れる果実の多様性を経験できるので、確然たる境界線をまたぐことができるでしょう。

地図無しで街それ自体だけを頼りに身体ごと街を感じながら優しく撫でるように這い愛でていると、街全体が目的地へと旅人を呼び込んでくれることがあります。身体的かつ全人格的に街に携わろうとすれば、街も何かしらの反応を示してくれるからです。パステルイエローとサーモン色の建物を通過して、植民地時代ポルトガルを想起させるマカオのセナド広場から喧騒的な路地裏を抜けると、旅人は聖パウロ天主堂の孤独なファサードに迎えられるのです。