エッセイ『旅の途上の』

知の流れにまかせるまま異国にたたずんでいると知が騒ぎます。何かと出くわして衝撃を受けることによって知が身体をつたいます。でも、知のにじむような旅の向こう側には知のしたたる至福が待つので知しぶきを浴びたり異郷者として通過儀礼的に生き知を吸うことは厭わないです。旅人の知は争えません。

名も無き場所で

旅の途上の何でもない場所は何でもない場所であるがゆえに名も無き場所です。

例えば、切り立った岩肌に囲まれた畑で育つ緑色した作物が薄い帯のようなものを織り成していて、そこを通り抜けて川を渡り、急な山の側にしがみつくように敷かれた未舗装の道路を登り始めると、巨大なサボテンが岩の割れ目から突き出て広大な青空を昇るようにしながら来る者たちをどこかに導いている。そんな景色を目の当たりにしたとき、自分が冒険小説の主人公にでもなって心で情景描写しているような錯覚に陥ることがあります。

視覚のみならず五感のすべてを総動員しながら生きた情景を体感しているときに心に刻まれる感動は、必ずしも名の知れた景勝地や観光地だけが有する専売特許ではないことを教えられます。名も無き場所に佇んでいるそういった風景が最も感動的であるのは、おそらくそこに風景が自らを描き続ける様子をうかがえるからでしょう。

名の知れた景勝地や観光地は、例えば世界遺産登録の対象となっている場合はなおのこと、そうでない場合も人の手によって守られることによって風景は甘やかされて動きを止めてしまうから、たいした感動を覚えないのかもしれません。ずっと泣いていたり笑っていたり澄ましていたりするスナップショットの瞬間的な表情には文字通りの動きがありません。人為的かつ作為的に演出された景色ではなく、名も無き場所で生きられた風景には動態的な表情があるのです。

だから美術館にある絵画作品よりも、並べられた絵画作品とそれを鑑賞する人々のちょっとしたしぐさやハプニングの方が、演出されたものでなく動きがあるので心動かされたりすることもあるのです。名も無き場所は至るところで旅人に愛を込めて撫でられるのを待ち焦がれているのです。