エッセイ『旅の途上の』

知の流れにまかせるまま異国にたたずんでいると知が騒ぎます。何かと出くわして衝撃を受けることによって知が身体をつたいます。でも、知のにじむような旅の向こう側には知のしたたる至福が待つので知しぶきを浴びたり異郷者として通過儀礼的に生き知を吸うことは厭わないです。旅人の知は争えません。

旅するモノたち

旅の途上にあるのは人のみならず、モノや資本やイメージや価値も同様に旅をしながらわたしたちの生活に影響を及ぼします。

かつて人々は自分の時間と空間を直接的に体感していました。自分の時間とは自分のいる場所の日毎や季節的周期によって規定され、自分を中心に眺めることができる時間のこと。自分の空間とは自分のいる場所であり故郷でもあり、そこからの関連において距離感を測定するような空間のこと。

でも時計や世界地図の誕生によって世界が均一に再編成されて、自分の時間は他人と共有する普遍的な時間となり、自分の空間は他人と共有する社会的な空間になってしまいました。世界が均一になってコンパクトになることに拍車をかけたのが航空機などによる輸送手段の高速化です。かつて10時間を要して訪れた土地に1時間で行けるようになったから、遠い土地が近くに感じるようになりました。言い換えるならば、時間が短縮されたことによって空間も狭くなったことを意味します。

時間と空間が狭められるようになった結果、わたしたちの食卓も世界中の来客で彩られるようになりました。遠い彼方でトロール漁法によって海底深くから捕獲されたり、遠い彼方の国の小さな村で組織的に運営される養殖産業で翻弄されるようになったエビたちは、どこか別の国を旅して調味料や箱詰めによって加工され、ようやく日本にやってきて店頭に丁寧に陳列されるようになり、消費者に購入されて食卓に辿り着くのです。

多くの人やモノが世界中のウェブを介して他人事ではない世界の住人になるから、画面の向こう側にいる遙か遠い人の方がすぐそばにいる人よりも近しい存在になってしまうこともあります。このようなダイナミズムによって、わたしたちの時間と空間は「今ここ」から引き剥がされることとなり、世界市民としての住民登録を余儀なくされた人間はグローバルビレッジと呼ばれる村に強制収容されることとなったのです。コペルニクス的転回によって地動説が唱えられることとなったように、もしかしたら動いているのはわたしたちひとりひとりなのかもしれません。もうすでに旅の途上にいるのですから。